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「つうしん」No.8

《 津山二葉園児童酷使損害賠償請求訴訟 》 経過報告

                      和泉富美子

 去る3月12日、口頭弁論の第2回準備手続が開かれました。

お忙しい中傍聴に来てくださった皆さん、ありがとうございました。
手続き終了後、弁護士会館で経過報告を兼ね、岡山定例会を開きました。

 今回の新しい動きを簡単に報告します。

1.原告が県に求めた資料はプライバシーの問題があるとして形式的な回答しかありません   でしたので、裁判所から文書命令を出してもらうようにしています。

2.被告から説明の文書が出されましたが、その内容は以下のような言い訳となっています。   原告側からさらに説明を求める予定です。

  ☆紙袋作り(平成元年から11年5月)

   製造量は不明。必要経費は会計資料が見つからないので不明。会計処理担当は被告元    指導員。アルバイト代は売上げから必要経費を差し引き、残りを児童が自主的に管理    し、配分を行った。年に1回個人に渡し、金庫または貯金通帳で保管。

  ☆パン作り(平成6年から現在)
   パンの各年製造量、売り上げは不明。会計処理担当者は元指導員。
   児童は手伝っていたが労働契約ではない。

  ☆消滅時効

   原告たちが損害賠償を請求することが可能になった時期は二葉園を退所した時点で    あり、損害賠償請求権が時効消滅している。

   これに対して原告側は、どんなに時間が経っていても損害賠償請求ができると、時効    の消滅は認めない方針です。

 県が資料提出になぜ消極的なのか、理解に苦しみます。このような県の姿勢は放置してき たことと根は同じとしか考えられません。

 被告側の反論は、原告たちの訴えをことごとく否認し、心を深く傷つけるものです。パン 作りについて「女子従業員がいたので、原告たちは気晴らしに頻繁にパン屋に出入りしてお り、多少仕事を手伝ったことはるかも知れないが、被告らの指揮命令下にあるアルバイトで はない」と述べていますが、高校3年間、1年362日間、睡眠時間3〜4時間しか取れな いほど働かされていたTくんは「あんなに働かせておいて、多少とはなんだ」書面を読んだ 時、身体が震えて悔し涙が出たと言います。15年間、園生活をしたYくんは「反論を読ん で身体がゾッとした。耳元で元指導員の声が聞こえてきた。何年経っても、元指導員の影を 追い払うことはできない」と言っていました。

 原告たちは、これから裁判の過程で攻撃や中傷など厳しい局面に立たされると思いますが、 その時にいかに支えるか。さらに心身ともに傷つき、後遺症に苦しんでいる卒園生たちの心 のケアや、就職や住居の問題など、裁判以前に子どもたちを支えるために、私たちに何が できるのか、本当に難しいところです。

《 たくさん交流ができた お花見会 》

 4月11日(日)、岡山半田山植物園で、原告2名と卒園生1名、計15名が参加して、 お花見会をやりました。

 当日は花曇りでしたが、桜は見頃。お弁当やお寿司を持ち寄り、和やかな交流会になりました。卒園生たちは7〜8年振りの再会でした。

 「変わってないな−」「今だから笑って話せるけど−」「そういえば園で飼っていた犬ま で鎖をくいちぎって逃げたよな−」と、話が尽きませんでした。「支える会」が彼らにとっ て、居心地の良い場になっていることを感じ、この活動を続けてきて良かったとつくづく 感じました。

まだ始まったばかり、まだまだ先は長いのですが……。

 川崎弁護士から「3人のはずむ会話を聞きながら『支える会』をここまで続けてきて本当 によかったと感じました。『支える会』がようやく少しずつ、卒園生が気軽に自分たちの ことを語れる『場』になっていきつつあることを強く感じました。まだまだ輪を広げていく 必要はあると思いますが、当初からの一人一人を大切に考えていく会であり続けたいと願っ ています」と、お花見会の感想メールがありました。

《 真実 vol.2 》   原告 Tくん

 1992 年。桜の木が自慢気に花を咲き誇らせ、春の到来を告げる頃、僕は津山二葉園へと入所した。理由は当時中学2年生だった僕の登校拒否と、元々病弱だった父が入退院を繰り返していた為だった。数年前まで、津山市内の別の養護施設に入所していた僕にとって、再び養護施設へと“戻される”という出来事は当時の僕にとって、とても辛い現実であった。

 入所したその日の夕方、二葉園の食堂にいた僕は、急に騒がしくなった園内に気付き、隣にいたYに尋ねた。するとYは、「ん?内職が始まったんだろ。」とあまりにも軽い口調で答えた。内職?その時はピンとこなかったが、Yに園の二階へと連れられて行くと、以前いた養護施設とは違うと気付くのにたいして時間はかからなかった。園の二階は“男子ホール”と“女子ホール”にわかれている。それぞれ部屋数は8つ程あり、1 人部屋〜4,5人部屋とわかれている。部屋を出たその中央には一般家庭でいうところのリビングがあり(僕等はその場所をホールと呼んでいた)、主に内職はその場所で行っていた。この日もそうであった。

 おびただしい数の紙袋の山…。1000や2000をゆうに越え、万の位へと届かんとする程の紙袋を前にした僕はしばらく呆然としていた。内職の行程をおおまかに述べると、1.紙袋の口を2〜3cm程、内側へ折り込む。2.折り込んだ箇所にのりを付けた厚紙を貼り付ける。3.ナイロン製の紐を通すための穴をあける。4.100枚を一束にまとめる。5.地域の内職希望者の元へ、4とナイロン製の紐を届け紐を通してもらう。6. 5を回収し、50枚づつにまとめ、梱包する。7.出荷する。

 という様な行程にわけられる。こういった作業を、中学1年生〜高校3年生までの園児全員が強いられ、納期に間に合いそうにないと、起床して登校時間間際になるまで作業を行い、帰宅してからも夕食、入浴時間以外は深夜になるまで続いた事もある。こういった生活を僕はこの先、約2年半耐えるしかなかった。

 僕の中学時代の思い出は、内職と暴力以外、何も残ってはいない。特に上級生からの暴力はかなり酷かった。ゴム製のハンマーで殴られたり、中指を曲げた状態で目を殴り、時には太い木の棒で体中を殴られたりもした。結果、僕は右手の指を骨折し、体は痣だらけになった。しかしその上級生も徳丈から暴力を受けていたのだ。早い話が上から下への“八つ当たり”であり、徳丈>上級生>下級生というあまりにも理不尽な一種の“方程式”の様なものが平然と成されていた。酷いときには体の自由がきかなくなるまで、ある時には意識が朦朧となり、痛みなど感じなくなるまでそれらは続いた。顔面は無惨にも腫れあがり、体のどこをみても痣ができ、血がにじんでいる。ここまでになると、教育や躾などといった意味はもはや微塵も含まれてはいない。直後、徳丈から決まってこの言葉を耳にする。

 「明日から学校は休め」と…。

 3月のある日、Tくんは、あるところのトイレで、どこかで見たことがある顔に出会いました。じーっと見つめて「やっぱりそうだ」と自信を持って声を掛けました。卒園生Bくんとの8年振りの再会でした。Bくんは15才の時に逃げきるまで、約10回近く、園からの逃亡を試みています。 「捕まっては、しばかれ、ある時は、逃げないように下着一枚で2週間ほど生活させられた。とにかく捕まっても逃げたかった。あそこは地獄だった。紙袋作りを夜11時、12時までやり、その後午前2時までパン作りをさせられたこともあった」

「裁判のことは何も知らなかった。まさか『支える会』に関わるとは夢にも思わなかった。でも、いろんな人と出会って勉強になるし、何かとっても得をしたような気持ち」
彼は最近、原告に加わりました。                   (和泉)

次回裁判日程は

 5月20日(木) 16時半〜
 岡山地裁 31号ラウンド

 ★終了後の17時(5時)より待合室にて報告説明会を行います。
  ご参加よろしくネ!

◎支える会の会員(年会費1000円)になってください。
 カンパも受け付けます。

 郵便振替 01310−9−9751
 名義   津山二葉園の子どもたちを支える会

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