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「つうしん」No.13

【 津山二葉園裁判報告】         弁護士 川崎 政宏

☆4月13日(水)午前11時からの準備手続

 双方本人尋問の準備に向けて、各原告、被告の陳述書面の作成に入っています。
 裁判所からの再度話しあいでの解決(裁判上の和解と呼びます)の余地はないかと被告側に投げかけがありました。

 被告側ははっきりとした答えはせず、原告側の意思確認をしてきました。
 原告弁護団としては、再度真相をあいまいにしたままで話しあいは考えていないと応答しました。
 いよいよ夏場の本人尋問に向けて準備手続もあとわずかとなってきています。

 ★ 次回は 6月8日(水)15:30から準備手続です ★

 4月3日(日)、岡山市半田山植物園で、会員、元在園生15人が集ってお花見会をしました。今年は桜は例年より1週間程遅く、ほとんど咲いていませんでしたが、楽しい交流会になりました。
 元職員のOさんと元在園生のHさんは二十年振りに再開。
「小さい頃はとてもやんちゃだったのよ。立派に成長したね」
「小さい時のことはあまり記憶がないけど、そんなこともありましたね」
と、話がつきませんでした。

《 真実 vol.8 》   原告 Tくん

 幼い頃の記憶として、今でも鮮明に覚えているものがある。小学校の入学式の時の記憶だ。あの日、空はこれ以上ないくらいに晴れ、心地よい風が真新しい制服に身を包んだ僕を、ふんわりと包みこんだ。僕はこれから始まる学校生活に気持ちを高ぶらせていた。その時、父が一枚の写真を撮ってくれた。その写真は今はもうないが、僕の記憶の中には、はっきりと鮮やかに残っている。庭先の花壇の前で照れくさそうにはにかんでいる、あの頃の僕が…。

 父は病気だったため、入学式には祖母が付き添ってくれた。帰り道では近くの駄菓子屋で、僕の大好きな、丸くて大きなえびせんや、ラムネ菓子、当時30円だったホームランアイスをいっぱい買ってくれた。幼い頃の僕にとっては、このうえないご馳走で、めいっぱいほおばりながら、祖母の手をつかみ家に帰った。学校は大好きだった。いろんな友達ができ、一緒に遊んだり、勉強も大好きだった。家に帰っても広告の裏にいろんな言葉を書いてみたりした。宿題も学校から帰ると、嬉しくてすぐにやってしまう。何が嬉しかったのかは今ではさっぱり解らないが、当時の僕は何やら変わっていた子供だったことは間違いないと思う。3年生か4年生くらいになると、その変わった部分が行動に出るようになってきた。“鏡の反射を利用して、遠くのものを近くで見ることは出来ないか”ということを思いつき、実験したことがある。ジグザグに配置した鏡に、それぞれの反射したものを次の鏡へと反射させる…。というものだが、結果はというともちろん失敗した。こんなバカをしながらぼくは毎日を暮らしていた。しかし、祖母はこんな僕の行動を応援してくれ、たっぷりの愛をいつも僕に注いでくれ、いつも笑って抱きしめてくれた。いつまでもこんな日が続くと思っていた。5年生の2月13日までは……。

《 ひょっこり訪ねて来てくれたYさん 》

 4月○日。元在園生のYさんから「今、津山にいるので都合が良ければ会いたい」と電話がかかった。前もって約束をして会うのは好きでないというYさんと、花粉症で引き込もり状態の私とタイミングが一致した。家に来てもらい、娘も一緒に食事をした。いつもこだわりのあるおしゃれをしているYさんはとても元気そうで4月から専門学校へ通うと張り切っていた。同世代の娘と話が盛り上り、とても楽しいひとときだった。

◆◆ 津山二葉園の子どもたちを支える会 ◆◆

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  口座名称    津山二葉園の子どもたちを支える会

『恩寵園の子どもたちとの関係で見えてきたもの(パート3)

               施設内虐待を許さない会 代表 浦島佐登志

 最初は「何で私なんかのところに来るの」と言っていました。「私は死んでやる。その時は園長を殺してやる」と怒鳴ってもいました。それが2ヶ月か3ヶ月くらいしてくると飯食って生きられるんだという感じになってきました。10月になって初めて「浦島さん、このうち鍵がないのよね」と呟く。「人」になってきたと感じました。鍵を買ってきて戸もなおしました。そうすると次々と要求が出てくるようになりました。洗濯機、掃除機。生きようと思ったときに要求を出してくる相手がぼくらなのです。付き合いは難しかったです。たぶん、生活費の半分は日々、盗むことで糧を得ていたのでしょう。そこで弁護士や先生が怒り役、われわれは怒らない役と役割を決めました。愛された体験がない子どもたち。「ぼくと女房を親代わりに思っていいよ」と言ったら、「親に愛されたことないから親代わりってわからない」と。ああしろ、こうしろという前に、とにかく愛してやるしかないのかなと思いました。育ち直しだと思って何でも。ところがそうこうしているうちに「この人はいい人だから」といもづる式に次から次へと困った子を連れてくるようになりました。「ダブルの服着せられてバッジ付けて葬式に行ったけど、これって組に入ったって事?」という相談には本当に困った。また、それを母親が全然知らなかったりするのです。

ヤクザがらみになった以上は弁護士と警察しかないということでマル暴関係に強い弁護士を立てて抜けました。

 裁判の方はどうかというと園長への支出無効との裁判も何とか進んでいきました。ところが子どものことをいつもまとめてくれていた山田由紀子弁護士が98年から1年間 留学でいなくなったものですから、私が山のような書類を読むことになりました。

 ある時、協力してくれていた園の職員との連絡がとれなくなりました。「るりは」というおばあさんと「S」さん以外は在職期間1年以内という職員を潰してしまう施設。子どもが学校に行っている間は休憩扱いで実質24時間の拘束状態では無理もありません。職員が居つかないことはこの施設にとっては有難いことだったのです。措置費は園長以外に40代、30代、それから若い職員がいるような状況を考えたうえでの給料計算表を元に出されているのです。平均1年2ヶ月の勤務なら平均年齢は若い。給料が安ければ差額が施設に入る。70人の定員で、給料を安くすれば園長の取分がたくさんあるというしくみなのです。しかし、このことは逆に子どもたちにとっては最悪の状態でした。面倒を見てくれる人が毎年変わるので信用することができない。卒園生に印象に残った職員がいるかと聞いてもほとんどないと言う。虐待する職員は長い間勤めることができ、そうでない職員は辞めていくという悪循環が続く中で気を許して愛着関係を育む職員が存在しないという現実。

 長く勤めている職員というのは竹刀使いであったり、風呂に入れて上からふたをするような職員だったのです。

☆真相究明もまだこれからですし、被告側は事実を全面否定している段階で、何故、話し合いの余地はないかという投げかけがあるのか、理解できません。

 いつの日にか、必ず二葉園の実態を明らかにしたいと思い続けてきた原告たち。

 死ぬ思いで、有力な証拠となる、パン作りや袋作りの現場の写真を隠し撮っていた原告。児童相談所へ、助けを求めて何通もの手紙を送った原告。

 話し合いの投げかけは原告たちには全く受け入れられません。

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