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「つうしん」No.20

判決延期ってどういうこと?

児童虐待があったと思うからこそ時効の議論に

1 おさらい−訴訟の始まり

 平成14年2月24日午前4時50分、児童養護施設津山二葉園のすぐ脇にあるアールエイチコーポレーション(当時、同園副園長で指導員であった水島徳丈氏経営)のパン工場。16歳の入園児童が児童相談所職員と会いました。工場の内部で自分がいつもパンを焼いていた状況を説明し、そのまま一時保護されたことから、新聞報道が始まりました。

 この児童は当時高校1年生。中学3年になったとき、それまでパン工場で働かされていた児童が高校を卒業するなどして退園したことから、同園で日常的にパン工場で働かされたり、小さい子の面倒をみさせられていました。水島氏から暴力も受けていました。さらに、児童相談所の卒園者調査で、水島氏による強制労働と暴力による児童虐待が、この児童が脱出するまで、10年ほども続いていたことが明らかになったのです。

 幼いころから日常的に暴力を受けたり、目撃したため、退園しても水島徳丈氏を恐れ続けていた卒園生。しかし、それでも「こんなことは許せない。きちんと謝ってほしい」という思いをもつ5名が、脱出児童の一時保護から1年あまりを経た平成15年7月、岡山地方裁判所に提訴しました。これが、「二葉園訴訟」です。

2 だれに何を請求するのか

  原告は二葉園にかつて入所していた5人。いずれも20代の半ば。
 被告(請求の相手)は、二葉園を経営する社会福祉法人「菜花の里(さいかのさと)」と二葉園の元指導員水島徳丈氏、そして、強制労働で利益を得ていた有限会社アールエイチコーポレーションの3者。

  請求の内容は、水島徳丈氏が@入所していた原告たちに暴力を振るうなどして虐待し、A入所していた原告たちをむりやり働かせて原告たちの二度とない思春期を辛いものにした。だからその慰謝料を払え、というものです。

 裁判では「謝れ」という請求が許されず、精神的損害も金銭賠償を求めることしかできないため、このような請求になっていますが、原告たちの本当の気持ちは「私たちを虐待し、強制的に働かせた事実を認めて謝罪してほしい」ということでした。

3 平成16、17年−証拠探し

  最初の2年は、証拠探しでした。弁護団の申立により、裁判所から調査嘱託や文書送付嘱託が行われた結果、児童相談所から資料が出てきました。平成14年当時の二葉園関係の調査記録、また平成7年から8年ころに原告Oさんが必死の思いで児童相談所に送った「暴力を訴える手紙」、脱出した原告H君が児童相談所に届けた当時の「証拠写真」や「証拠テープ」も見つかりました。

 写真には、「内職」と呼ばれた袋作り作業を証拠づける巨大なトラックや、紙袋の山が写っています。テープには、水島氏の怒鳴り声とともに物をたたく音がはっきりとは言っていました。手紙には、日常的な暴力と暴言の様子がはっきり書かれています。

 また、児童相談所の平成14年の調査記録では、職員や卒業生の中には、水島氏の暴力を見たことがあるという者が複数いるのと対照的に、入所中の子ども達は全員が暴力の存在を否定していた、つまり「入所中の子どもは真実を言えない」ということこともわかってきました。

 一方、被告側は、二葉園の職員が記入した日誌を証拠提出して、原告たちが問題児であったかのような主張をしてきました。しかし、被告提出の証拠により、水島氏が経営していたアールエイチコーポレーションが、莫大な売上げを出していた時期でも人件費らしき出費が全然みえないことも、会社の通帳からわかりました。

4 平成18年−証人尋問と本人尋問

 3年目に入った平成17年4月、元職員のFさんが、原告たちの主張が真実であることを証言、続いて被告側から証言した元職員の女性は、「暴力は見ていない」という一方で「内職は夜の9時を過ぎてもしていたことがある」「原告のT君たちがパン屋で従業員の制服を着て接客しているのを見たことがある」などと証言しました。

  いよいよ平成18年8月、10月は本人尋問。

 原告たちの証言は、雨の日にゴム長靴で登校するルールを破ったからと水島氏から殴られたこと、逃げ出してつかまり、ものすごく殴られたこと、女性原告の0さんが児童が集められた集会で、みんなの前で四つん這いにさせられてお尻を叩かれたこと、日々の内職はあまりにも当然の仕事で、拒否するなどとは考えられなかったこと、パン屋で登校前と下校後閉店まで働いていたことなど、壮絶な内容でした。

 これに対して、11月、12月に証言した水島氏の説明は、とにかく「児童の代表がやりたいと言うからアルバイトとして内職をさせてやった」、パン屋へ来ていた児童は「遊びに来ていただけ」というものでしたが、お金のことも含めて全く説明になっていませんでした。

5 和平成19年前半−和解の試み

  平成19年は、和解協議で始まりました。裁判所から、判決ではなく、和解での解決ができないかというの勧めがありましたが、被告=水島氏側は事実関係について一切認めないままお金だけはいくらか出すという姿勢を変えず、原告側は事実関係を認めない和解は拒否するしかないため、2階の協議で決裂しました。

6 訴訟の終盤−時効の壁

  最後の争点は、法律の専門知識に属することなのですが、要するになぜ損害賠償をしなくてはいけないのかという法律上の根拠により時効の長さが違うということです。

 民法によると、不法行為(違法に人の権利を傷つけた場合)による賠償請求権は3年で時効消滅、債務不履行(約束を守らなかった場合)の責任追及権は10年で時効消滅します。時効は「権利を行使できるようになったとき」から起算されるため、

 被告の主張は、「原告が成人になってから3年以上経っているから、もし仮に水島徳丈のしたことが悪いことだったとしても、時効消滅!」というわけです。

  原告としては、「成人したからといって直ちに訴訟を起こすことなど実際には不可能であるから、平成14年に入所児童が脱出して新聞報道され、実質的に訴訟できるようになってから提訴までは1年しか経っていない」と主張しています。しかし、念のため、最後に「原告と菜花の里が直接契約をしたわけではないが、岡山県が子ども達を措置したことによって菜花の里と特別の関係になったのだから、契約で約束したのと同じように入所していた原告たちが安全に生活するように気をつける義務(安全配慮義務)があった。この義務は退所してから10年間は時効消滅しない」と主張しました。

7 判決の延期 

 この安全配慮義務をめぐって最後の主張が交わされ、その詳細の攻防が続いているため、いったん指定された平成19年12月13日の判決期日が延期となりました。

 これはどういうことでしょうか。もしも、児童虐待も強制労働もなかったのであれば、そもそも時効の問題を議論する必要はありません。被告側はそのことを意識してか、おそらく意図的に、今まで時効のことは強く主張しなかったのです。

 ところが、原告が念のために10年の時効を明確に主張したので、反論せざるを得ないし、裁判所もそこを改めて真剣に検討し始めた・・・・ということは、「強制労働や虐待があった」とみんなが考えているということではないでしょうか。

  判決に注目していきましょう。
 
    真実VOL12.

「ごめんな。痛かっただろ?」彼女を見張り終え、すかさず彼女へと声を掛けた。「いいよ…」力ない声で彼女が答えた。「しないと今度はみんながされるんだから」おもわず黙ってしまった。 そうこうしている内に僕は高校生になった。

 高校生になると園からおこずかいをもらった。3000円だったがものすごく嬉しかった。ジュースを飲み、学食も食べたりした。だけど毎月1000円だけは使わず、こっそりと貯めていた。その年の11月、パン屋がオープンすると聞かされた。徳丈に誘われて、園にある応接室に入ると一枚のスケッチを見せられた。「綺麗だ…」ため息を漏らしてしまった。そのスケッチからはとても暖かな雰囲気が感じられた。暖色をふんだんに用いており、中央に配置されたショーケースがキラリと輝いて見えた。もう一枚の紙には、「フランスの家庭の味を食卓へ…」と書かれていた。「いいだろう?レジでも打ちに来てもいいぞ」徳丈が言った。僕は笑顔で頷いてしまった…。

 しばらくしてからパン屋がオープンした。初めは裏方作業だったが次第に本格的にパン作りに従事した。パン屋から外を見ると、田んぼが見えた。その田んぼを通して季節の変化を感じていた。

 店頭販売、予約注文、移動販売、宅配…。何でもした。特に多かったのは保育園と障害者施設からの注文だった。「サンドイッチ200人分」とか…。慣れないうちは園に持ち帰り、みんなで作業した。食パンを12ミリの厚さで切り、マヨネーズを塗り、具材を入れ3当分に切り、ケースに入れる。そういった作業を繰り返し行い、気が付けば外はうっすらと明るくなっていた。徳丈の車で配達し、終われば店に戻り開店の準備をした。学校に行くのはその後で遅刻なんかは日常茶飯事だった。授業なんかしている場合ではなく、激しい睡魔には到底かなう訳なく、そのまま眠っていた。高校生時代には「パン屋」と言うあだ名まで付いた。友達だけではなくそんなに仲がいい訳ではない人からも、気軽に呼んでもらえるので別に嫌ではなかった。ただ、卒業して10年以上たった今でも「パン屋」と呼ばれるのはどうかと思うが…。

 僕の高校生時代の思い出というのは、パン屋に尽きる。大げさだと思われるかも知れないが、事実そうなのだから仕方がない。友達と放課後、遊びに行ったわけでもないし、その足でパン屋に向かっていたのだから、思い出なんかないのだ。友達が何人か店まで来て、パンを食べたりしていたが僕はそんな友達を横目に働いていた。時には好きなだけパンをあげたりした。そんなことをしながら、友達との接点を保とうとしていた。そんなある日、僕の体に異変が起きた。立ちくらみや激しい吐き気、食欲も無くなりまるで魂の脱け殻のようになった。僕はそんな体調を笑顔で迎え入れた。高校3年生の時だった。

 その日の朝、園内のばたつく音で目が覚めた。時計を見ると「6:30」を示していた。ヤバい!と飛び起きた瞬間、限界が来た。サーっと血の気がひくのがわかった。意識が朦朧となりながらも店へ行く準備と、学校の準備をし、部屋を出た。外からは徳丈の車の音がしていた。外に出ると、同級生のYとすれちがった。「大丈夫か?顔、青いぞ」僕は頷いて、車に乗った。車内での徳丈はやけに口数が少なく、僕の体調を知っているかの様だった。フラフラになりながらサンドイッチを作り、接客をした。通学途中にある公園まで来た時に、もういいやと思い空を見上げた。糸が切れたあやつり人形のように僕は倒れた。

 気付いた時には徳丈の兄が経営する病院にいた。逃げれない。と率直に感じた。しばらくしてから、園から迎えが来た。まだフラフラする体を支えてもらい、なんとか園へと戻った。次の日、右足が全く動かなくなった。「変態病だ」と徳丈から罵られ続けた。最後には馬鹿笑いまでされた。

高校を卒業し、進路が決まらなかった僕は、措置延長され二葉園に残るようになった。「金かかるなぁ」とも言われた。無論、あの人からだが。ある日僕は、高校で仲のよかった友達に店から電話をかけた。そしてある約束をした。

いよいよだ…!

★再開される弁論期日2008年1月24日(木)10時半、岡山地裁

★「気の遠くなるほど長い裁判になりますよ」川崎弁護士の言葉のとおり、延々と待たされ、やっとこぎつけた判決の期日は延期された。この5年余り、待つことに慣れたからか、延期と聞いても、別に落胆もしない自分に我ながら驚いている。原告たちも同じ心境だろうか。

★11 月のある日、元在園生Aさんから「インターネットで裁判のことを知った。ぜひお会いしたい」と、突然電話があった。二葉園での人権侵害が一番厳しかった時期、Aさんは原告たちのリーダー的存在で元指導員から目の仇にされた。大怪我をして何ヶ月も入院している。原告Yさんは「自分よりももっとひどい目にあっていた。生きているかどうか分からないAの分も闘う」とよく話していた。生きていたら必ず連絡があるだろうと信じて待ち続けた元在園生の一人だった。目の前に現れたAさんは、立派な社会人になり、幸せな家庭を築いていた。やっと会えたという喜びと安堵で胸がいっぱいになった。過去を封印して生きてきたAさんは、数日前にすべてを連れ合いに打ち明けたそうだ。「原告たちが頑張っているので、ぜひ裁判には協力したい」又、頼もしい応援団が加わった。

★インターネットの影響力に改めて感激!Stop施設内虐待のホームページの管理人さんたちありがとうございます。(IZU)

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